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[663] 2006年10月15日(日) 23:06
体験記 |
どうして出来ないのだろうか?
僕は世間でいうところの性同一性障害者です 僕たちにとって自分の体内にある子宮という物体は、この世に決して存在してはならない、何よりおぞましい生ゴミでしかなく、摘出手術が終わりビニ袋に医療廃棄物として納まってるソレを見て、ようやく人生を半分取り戻した様に安心する汚物でしかありません
僕等は、それを持って生まれてきた事自体が許せず、絶望で、ただ自殺だけに救いを見出すのです
しかし例え、宝くじ1等前後賞当選並の幸運に恵まれ、無事全身の再判定手術を済ませ戸籍変更までクリアしても、生殖機能を備えた本来の性器を失した生物であるという悲しみ、即ち、あるべき臓器を持たない哀惜は生涯続くのです 生物として自然な、あるべき物を持たない哀しみは、病気で子宮や睾丸の摘出を選ばざるを得なかった皆様の想いと、おそらく同質の筈です
僕は幼い頃からずっと考えているのですが、子宮摘出の憂き目にあった女性たちに僕等のそれを移植する、という治療は何故許されないのでしょう? 卵巣移植なら確かに、遺伝子等で様々な問題がありますから、ダメだという理由も分かるのですが、子宮移植禁忌は何故
多くの性同一性障害者の摘出子宮はピンピンの健康品なのですよ 医療廃棄物になるそれを見たら、子宮喪失を嘆く女性たちはどう思うのでしょうか
僕等には地獄と絶望しかもたらさない無駄な臓器、しかしもし同じそれが、望まずして子宮を喪ってしまった何処かの女性の魂を救う為、自分に寄生して現世に託された物であるなら! 僕は、社会のゴミでしかない自身の出生と存在を許す事が出来るかも知れないのに |
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