「“人生いろいろ”って言葉、使いづらくなってますよね」
2005年9月27日
今日は、まるで大学の授業のように、皆さんが机につき、その前方の一段上がったところから私がお話するという形での講演でした。・・・きっ、緊張しましたよぉ〜。 それこそ、学生並みに勉強熱心な方もいらして、びっしりメモを取っているのが、こちらからも見えるんです。「うわわっ、ちゃんとお話しなければ!」と思えば思うほど、話している言葉が宙に浮き、「その技を、病気になったときに使わない手はありません」と、言いたかったところを、「病気になったときに使わない、使わない・・・ことはもったいないです。・・・どんどん使ってください、その技を」などと、おかしな倒置法になってしまったりするんですよね。 ・・・いかがだったでしょうか? ドギマギしたときは、前から4列目の、カメラ機材のすぐ左側の席で、ずっとニコニコしながら背筋を伸ばして聞いてくださっていた、柿色Vネックのお母さんを見るようにしていました。今日、皆さんに伝わることがあったならば、それは、あのお母さんの癒し系スマイルのおかげだと思います。・・・感謝。
実は私、大昔は、中学の理科教師になりたいと思っていたんですよ。 大学2年の頃までは、教職も取るつもり満々だったのですが、・・・青春の思い出作りのつもりで参加したラジオ番組にすっかりハマり、親の大反対を押し切って、大学を中退。 今となっては、若気の至りと後悔しきりなのですが、ま、あのまま大学を(5、6年かけて、どうにか)卒業したとしても、理科教師にはならず、マスコミ関係の職をあちこち探し回ったでしょうから、人生、これでよかったのかもしれませんね。 しっかし、教師になっていたら、教壇で一々ビビッていたでしょうね。もしくは、ビビリな自分を隠すために、生意気な生徒を出席簿かなんかで引っ叩いちゃって、PTAで吊るし上げを喰っていたかも・・・。
それにしても、大学時代のクラスメートたちは、今頃どうしているのでしょう? ごくごく親しい友達数人を除き、その後、皆がどう社会へ羽ばたいていったのか知る由もありません・・・。小・中・高校時代の友人となら、まだまだメッチャ付き合いがあるんですが、大学生となると、住んでいる地域・環境も、親同士の連絡も、その学校へ進学した経緯も、本人の価値観も、具体的になり始めた将来の希望も、全部があまりにバラバラで、友達の輪が急に小さくなってしまうのかもしれませんね。
ちなみに、日本女子大学には、小学校(幼稚園もあったような気がしてきました・・・)からエスカレーター式に上がってきた、いわゆる“附属上がり”のほぼもれなく“お嬢様系”のコと、大学から受験で入ってきたほぼもれなく“まだオシャレに目覚めていません系”のコの、大雑把に言えば2種類の女のコがいました(もちろん、中には、雨の日に長靴を履いてくる、“まだオシャレに目覚めていない、天使のような箱入りお嬢様”もいましたので、一概には言えないのですが)。 私は、文化屋雑貨店で買った500円のオーバーオールを着て学校へ行き、「え、何それ、変わったお洋服ね。お掃除する人みたい」と、ちょっぴりデビルな前者に珍しがられた・・・生粋の後者です(笑)。
なので、多分、その後の人生も、大きく分かれたんじゃないかなぁ・・・などと、ときどき想像を膨らませたりしています。学校に毛皮のコートを着て来ていたあのコは、きっと、どこかの大富豪と結婚し、今頃、子供たちをスイスの超おぼっちゃま学校へ送ったついでに、エルメス本店の奥まった部屋でクロコダイルのケリーを特注していたりして、なんて。
あ、今、気づきました。世の中には、詳しく知らない方が素敵なこともありそうですね。 ・・・ユーミンの、「あなたは素敵なダウンタウンボーイ、未来を夢見ていた〜」ってフレーズを思い出しますねぇ。「汚いシャツ着たヤツだと、兄貴は電話さえ取りつがな〜いの〜」なんて、つらすぎる! あの頃は携帯がなかったからなぁ(涙)。ただね、そんな兄貴は今頃、きっと苦労してるはずだよ。何を着ていたって心は錦なんだっつうの(拳)。
さてさて、今日は全然、お話がまとまりません。まとまった試しもないんですけど。 先月、大学時代の同級生(非・お嬢様系)と偶然、バッタリ再会したのですが、彼女はうちのジンギスカン・レストランのすぐそばにある大会社の課長になっていました。すごい! かっこいいぞ、明美! 次は名刺をちょうだいよぉ〜ん。 ・・・と、最後は、やや詳しく友達自慢をしつつ、お暇したいと思います。おやすみなさい。
PHOTO「平田雅子先生と」 今日の講演でご一緒した女性科の先生 目白駅のすぐお隣、JRホテルメッツ目白1Fで開業なさっているそうです 身構えずに相談しにいけそうですね お問い合わせは、03−5992−5550「私のクリニック目白」まで |