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[858-1] 2006年10月 1日(日) 10:49

「光の恵み」とは

投稿者名: ブレネリ
コメント:
もし、光しか存在しない世界に人間が存在するとしたら、人間は、まさにその光のせいで「光の恵み」を認識することが出来ない。神様が、わざわざ光と闇とに世界を分け隔てたのは、この光の恵みを人間に認識させるようにする為。すると、光と闇あるいは陰の出所はまったく同じということになります。現代世界にある人間は、発達した科学技術で闇を退け、光の中だけに安住することが可能であるかのような気になっているよう。しかし、陰のない世界を作り出そうとする人間のこの試みはそもそも奢りであり、人間に別の不幸をもたらすのではないか。

無論、自ら進んで不幸になどなる(それを選択する)ことはない。が、不幸なことが事実、我が身に降りかかった時に、“不幸でないことが幸せであるのだから、幸せであればいい”と気軽に言って、自分にそう言い聞かせて簡単にそうなってしまえるくらい、人間は果たしてそんなに精神的に強い存在か、と言えばそうではない。人間は自分が予測もしなかったような不幸な出来事の真っ只中に放り込まれることが生きていると実際にあります。否、あるのが現実。そのような時、自らがその悲劇の主人公であるかのように感じ、その人に見えるのは最早、真っ暗な世界だけ、漆黒の暗闇の中でただ1人、光などどこにももう見えぬなどと思い込んでしまう、ということがあると思う。すると、それ程強くない人間は、その陰の世界以外は見えないという状態にその時は陥る他なくなる。絶望状態にあり、救いを求めるが、どこにも無い…と。

そこで、人はこう問うのです。「多くの人は不幸な出来事など何もない世界になってほしいと願うが、影のない世界に一体、光は存在することはできるのか」と。この、問いは現代世界に生きる人間一般に投げかけられた問いとして洞察しなければなりません。宗教的救済とは、このような世界に光を願うところに発生し、それは問題の精神的解決をはかります。一方、物理的解決をはかるのが科学や医学だと思いますが、宗教はここではひとまず置いておいて、先に、「人間に別の不幸をもたらすのではないかと危惧」と言ったその危惧とは、現代の高度に発達した最先端科学や医療が、人間が手段かまわず欲望のままに己の欲求を充足できる、不幸を完全排除できる、という錯覚に人間を貶めているのではないか、ということ。『無痛文明論』という本が話題になりましたが、日常からそうしたテクノロジーや制度によって苦痛や死を隠蔽してしまうことが現代人は「幸福であること」だと思い込んでいるのではないか、ということであり、上の問いは上手くそのことを指摘しているのです。


代理母出産で子を授かるということ。テクノロジーが覆し、他者の身体器官を自己の欲求充足の為に利用する。これが日常一般化、常態化すれば、一体世の中はどうなるのでしょうか。己の身体器官を、他者の欲求充足の為に提供するのは、自己の身体を道具として利用することに他ならず、それはその実、不幸な他者を幸福にする、という名目を隠れ蓑にした人身提供ビジネスがそこに成立しているのであり、もし、その代償として当事者間に金銭授受があるならば、私は代理母出産という行為を決して売春と同じだとは言わないが、それは論理的には売春と変わりがありません。子供が産めない体である事実、つまり事実がどんなに厳しくあろうとも、己のあるがままをありのままに受け容れるということは非常に難しいことです。しかしながら、そうしている人も、実際に世界中に沢山います。私もそのうちの1人。これは出来ないことはありません。不幸でないことが幸せであるのだから、ただ、幸せであればいい。つまり、幸せを感じたいためには、不幸になる必要はない。幸せを感じていないことがそもそも不幸であるのだから、それ以上に不幸になる(不幸と感じる、自と他を比較して幸不幸を量る)ことは幸せになることではない、自らも、愛する人をも幸せにすることではないと、その時、割り切れるのだと思います。人間が自らの欲望や欲求の充足のための手段や道具として人間を利用すること、このことが憂慮され、危惧されるのは、それが人間自身の自己破壊に繋がりかねないからに他なりません。
[858-2] 名前:凛太郎 2006年10月 1日(日) 10:58
人の領域、神の領域とはなにか・・・感慨深いコメントです。
この問題に関しては、金があればなんでも出来るという風潮に拍車をかけるとことが一番懸念されます。
[858-3] 名前:神 2006年10月 1日(日) 11:26
原罪主義プンプン撒き散らす演説には吐き気をもよおすが、
貴殿の展開は持論を「ありのままに受け入れていない」
ことを証明している。

“論理的には代理母=売春”といった陳腐な表現をはじめ
とするエキセントリックかつ断定的な羅列を控え、
「頭ではわかっているありのまま」を受け入れ、
日々の有り様に感謝し、謙虚に生きることを進言する。
[858-4] 名前:ブレネリ 2006年10月 1日(日) 11:35
「頭ではわかっているありのまま」を受け入れ、日々の有り様に感謝し、謙虚に生きることを進言する。

まさにこの言葉が、あなたに、そして、当HPの開設者に対して向かうものなのだと思いますよ。
[858-5] 名前:きらり 2006年10月 1日(日) 12:54
あるがままを受け入れる。
キレイすぎて、キレイごとのように聞こえます。
ただ受け入れるだけの現状維持で、いまの生活が生まれましたか?
あなたの虫歯や病気の治療は、科学や化学、医学の発展の上に成り立つものではないですか。
今回の向井さんの件は、もっと単純なことですよね。

闇があるから光を認識する。
ごもっともです。
光と闇を何に例えたかったのかは、宗教的なにおいを払拭して考えれば、代理母の是非ですよね?
だって神の領域、人の領域といった分け方があるとすれば、人はとっくにあなたの言う神の領域へ入って好き勝手なことしていますし、今回の件に遺伝子操作の話は関係ないですから。

代理母を売春と並べるのは、また極論で、
あなたの倫理で行けば、骨髄バンクや献血、臓器提供を行う者すべてが売春です。対価が発生するのは、病院を通した時点でみな同じことですよね。

不幸になりたくないのは、当たり前です。
幸せを求めて何がいけないのですか。
自己中心的ではない人間なんていませんよね。欲望を持たない人間も。

それでも、人は、自分でない誰かを思いやり、優しさや人への理解をつむいできたのではありませんか。
[858-6] 名前:ブレネリ 2006年10月 1日(日) 13:50
ただ受け入れるだけの現状維持で、少なくとも、この私の生活は生まれていますが。無論それは、今の時点での科学や医学の進歩の上にあるものとして成り立つ生活のことであって、虫歯や病気の治療はそれで済む話なのです。しかし、代理母出産という行為と虫歯や病気の治療を並列にするのがそもそもおかしいですね。
だからこそ、申し上げているのです。とっくに“領域”に入っているからといって、だから自分も、その領域に入って好き勝手なことをしていい、というのであればそれはとんでもないことであるとね。それは、思い上がりですよ。

私は、「もし、その代償として当事者間に金銭授受があるならば、私は代理母出産という行為を決して売春と同じだとは言わないが、それは論理的には売春と変わりがありません。」という限定した言い方をしています。代理母が直ちに、イコール売春とは申し上げていない。また、骨髄バンクや献血までは含めていない。献血は基本的にはボランティア行為であり、金銭授受はないですね。だから売春と論理的に同じでないです。臓器提供については、話がまた複雑になりますのでここでは控えます。

幸せを求めていけないといっているのではない、その“求め方”が間違っている、と申し上げているのです。その求め方において、其々が其々の仕方で欲求を実現させる為に、手段を最早厭わずやりたい放題やり始めたら一体全体どうなるのか、ということであり、まさしくこの行為はその中のひとつではありませんか。
[858-7] 名前:パン 2006年10月 1日(日) 13:57
やー全然そうは思いません!
間違っていないですよーーー!!!
(^o^)丿
[858-8] 名前:ブレネリ 2006年10月 1日(日) 14:05
>それでも、人は、自分でない誰かを思いやり、優しさや人への理解をつむいできたのではありませんか。

きらりさん、この様に仰ることの方が、かえって「キレイすぎて、キレイごとのように」聞こえてしまいますよ。

それでも、人は、自分でない誰かを思いやり、優しさや人への理解をつむいできた…、この様に言えるのならば、子供がいなくても、たとえ子供が産めない体でも、最初から、“他者”(子供、親のいない子供や、養子、孤児など)を愛することが出来た筈ではないですか?
[858-9] 名前:パン 2006年10月 1日(日) 14:18
ブレネリさん こんにちは〜(^o^)丿

優しさを求めるのでしたら 人にも優しくなりましょうよ〜
すると 自分にも優しさが戻ってきますよ〜

亜紀さんにも ぜひ 優しさの目をむけてください(^_-)
[858-10] 名前:かず 2006年10月 1日(日) 14:23
なんだかんだと難しい言葉を並べ立てて書いてありますが、裁判で出た結果なのですよ。不満があればそちらへどうぞ。
[858-11] 名前:ブレネリ 2006年10月 1日(日) 14:35
優しさとは、肥大化した自己愛を受け入れてあげなさいということとは違います。むしろ、それとは、まったく逆のものなのですよ。これは、当人にとっては、辛く重く厳しい現実に真正面から対峙せねばならないことなのですが、それを本当の意味で支える他者の助け、即ち、愛によって、当人はこの現実を乗り越えることが出来るのです。それこそが、真の「優しさ」というものです。
[858-12] 名前:神 2006年10月 1日(日) 18:22
スレ主自らアゲ&削除はみっともないよ。
自慰行為は2ちゃんへどうぞ。
(ってこんな程度じゃスルーされるのがオチだろうがなw)
[858-13] 名前:ひゅうが 2006年10月 1日(日) 18:26
論文みたいだけど、抽象的すぎ。

何が言いたいかわからないから、

要点まとめて結論あっぷしてください。
[858-14] 名前:てるみん 2006年10月 2日(月) 9:28
全て受け入れて生きるだけでは学びにはならないと思います。人はこの世に「自分自身の学び」と「自分を人のために役立てる」ために生まれてきているのです。代理母として、自分の体を使って、子供を望む夫婦の子供を産んであげたい、というそういう純粋な思いはとても素晴らしいものだと思います。定められたまま生きるだけでは何の学びにもなりませんし、それでは何のために生きているのでしょう?人であるかぎり間違いももちろん犯します。でも間違いと気づいた時にこそ学べるのだと思います。しかもそれが正しいことか間違っていることかということも、人間には正しくは裁けないと思います。向井さんの行動は、彼女の選んだ道であり、たくさんのことを学べたと思います。正しいことか間違いなのかは分かりませんが、たくさんの学びのある生き方といえます。



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